最近、あるWebマーケティング支援SaaSを手がける気鋭のスタートアップが、大手IT企業に5億円で買収されるというニュースがありました。創業者はまだ若く、事業も順調に成長している最中での決断。周囲からは「もったいない」「もっと大きくできたはず」という声も聞こえてきそうです。
この記事を読んでくださっているあなたも、IT・Web業界で日々奮闘されている経営者だと思います。もしかしたら、このニュースをどこか他人事のように感じているかもしれません。
ですが、私は断言します。この決断の裏側には、あなたの会社の未来を考える上で、他人事では済まされない、極めて重要な学びが隠されています。
この記事では、このM&A案件を題材に、あなたの会社の価値がどのように決まるのか、そして、会社の未来を最大化するために、経営者として今から何をすべきか。単なる事例解説ではなく、あなたの会社の経営に活かせる「羅針盤」となるような、実践的な教訓をお伝えします。
エグゼクティブ・サマリー
この記事を読み終える頃には、以下の3つの学びを得られるはずです。
- M&Aにおける企業価値は、過去の実績(純資産)だけでなく、「将来の稼ぐ力」で大きく変わる。
- 日々の経営で意識すべきはPLだけでなく、M&Aの交渉材料となる「BSとCF」である。
- 会社の価値を最大化する売却のタイミングは、業績が「最高潮」の時である。
案件概要
今回の分析にあたり、具体的な企業名を避けつつ、IT業界でよく見られるM&Aのモデルケースを設定します。
項目 | 概要 |
売手企業 | 株式会社TechGrowth(仮称) |
・設立10年目のWebマーケティング支援SaaS提供企業 | |
・売上:5億円 / 営業利益:5,000万円 | |
買手企業 | 大手ITソリューション企業(仮称) |
・既存事業とのシナジー創出とSaaS事業の強化が目的 | |
取得価額 | 5億円 |
スキーム | 100%株式譲渡 |
企業価値評価(バリュエーション)の深掘り解説
会社の値段、いわゆる「企業価値」はどのように決まるのでしょうか。ここでは代表的な2つの考え方をご紹介します。ご自身の会社に置き換えながら読み進めてみてください。
【この分析の前提】 本分析は、あくまで一般に開示されている情報やモデルケースを基にした限定的なものです。実際のM&Aでは、より詳細なデューデリジェンス(買収監査)を通じて、多角的に企業価値が算定されることをご了承ください。
評価手法① 純資産法(年買法):会社の「土台」の価値を知る
中小企業のM&Aで最も基本的な考え方が「純資産法」です。これは、会社の貸借対照表(BS)にある「純資産」をベースに価値を計算する方法です。平たく言えば、「もし今、会社を解散した場合に、手元にいくら残るか?」という考え方です。
- 純資産 + 営業利益 × N年 = 企業価値
上記の「N年」の部分は、事業の安定性や将来性を示す「のれん代」のようなもので、一般的には3年~5年で計算されることが多いです。これを「年買法」と呼びます。今回のTechGrowth社の場合、仮に純資産が1億円だったとしましょう。
- 1億円(純資産) + 5,000万円(営業利益) × 3年 = 2.5億円
この計算だと、売却価額の5億円には届きません。なぜでしょうか? それは、IT/Web業界のM&Aでは、この考え方だけでは測れない、もっと重要な価値があるからです。
評価手法② EBITDAマルチプル法:IT/Web業界の「将来性」を測る
IT/Web業界、特にSaaSのようなビジネスモデルでは、現在の利益以上に「将来どれだけキャッシュを生み出せるか」という成長性が重視されます。そこで用いられるのが「EBITDAマルチプル法」です。少し専門用語が出てきましたが、安心してください。一つずつ解説します。
- EBITDAとは?
- 営業利益 + 減価償却費 で計算される、「事業が生み出す本来のキャッシュフロー」に近い指標です。設備投資の多いIT企業の実力を見るのに適しています。
- 例:「利益は出ていないけれど、先行投資でサーバーをたくさん買った」という場合、その投資分を利益に足し戻して考えるイメージです。
- マルチプルとは?
- 「倍率」のことです。同業種のM&A事例や市場の期待値を基に、「EBITDAの何倍で取引されているか」という相場が決まります。IT/Web業界の成長企業であれば、8倍~12倍、あるいはそれ以上になることも珍しくありません。
では、TechGrowth社をこの方法で見てみましょう。 営業利益5,000万円に、仮に減価償却費が1,000万円あったとします。
- EBITDA = 5,000万円 + 1,000万円 = 6,000万円
このEBITDAに、仮にマルチプルが約8.3倍と評価されたとすると…
- 6,000万円(EBITDA) × 8.3倍 = 約5億円
となり、実際の取得価額と近しい数字になります。もし自分の会社なら、どうすれば評価が上がるか?ここが最も重要です。この評価手法からわかるのは、企業価値を高めるためには「EBITDA」と「マルチプル」の両方を向上させる必要がある、ということです。
- EBITDAを増やすには?
- 言うまでもなく、売上を伸ばし、利益率を改善することです。特にSaaSであれば、顧客単価(ARPU)の向上や、粗利率の改善が直接的に効いてきます。
- マルチプル(評価倍率)を高めるには?
- 事業の安定性・継続性を示すことが鍵となります。
- 解約率(チャーンレート)は低いか?:顧客が定着している証拠です。
- 特定顧客への依存度は高すぎないか?:売上が分散されているほど安定性が高いと評価されます。
- 独自の技術や強力なブランドはあるか?:他社が真似できない「参入障壁」は、高いマルチプルに繋がります。
- 市場の成長性は高いか?:成長市場にいること自体が、会社の将来性への期待を高めます。
- 事業の安定性・継続性を示すことが鍵となります。
日々の経営において、これらの数値を少しでも改善していくことが、将来のM&Aイグジット成功への確実な一歩となるのです。
【最重要】このM&Aから、IT経営者が学ぶべき「3つの教訓」
さて、ここまで企業価値の算定方法を見てきました。 しかし、本当に重要なのは、この分析結果から何を学び、自社の経営にどう活かすかです。 元・経営者として、私が最もお伝えしたい3つの教訓がこちらです。
教訓① 事業戦略:「一点突破」と「拡張性」の両立が企業価値を高める
今回のTechGrowth社は、おそらく「Webマーケティング支援」という広大な市場の中で、特定のニッチな領域に特化し、そこで圧倒的な強みを発揮していたのでしょう。だからこそ、大手企業が「喉から手が出るほど欲しい」存在になれたのです。これは、経営資源の限られる中小企業にとって、非常に重要な戦略です。まずは「一点突破」で、誰にも負けない独自のポジションを築くこと。
しかし、それだけでは足りません。同時に、「その強みが、他の大きなプラットフォームと組み合わさることで、どう化けるのか?」という拡張性のストーリーを描いておく必要があります。買手企業は、あなたの会社の単体の価値だけでなく、自社の事業と掛け合わせた際の「シナジー(相乗効果)」にこそ、大きな価値を感じてお金を払うのです。あなたの事業は、どのような企業と組めば、可能性が爆発的に広がりますか?その視点を常に持っておくことが、M&Aという選択肢を現実的なものにします。
教訓② 財務管理:「PL思考」から「BS・CF思考」への転換を
日々の経営では、どうしても売上や利益といった損益計算書(PL)上の数字に目が行きがちです。しかし、M&Aの交渉のテーブルについた時、買手が徹底的に見てくるのは、貸借対照表(BS)とキャッシュフロー計算書(CF)です。
- BS(貸借対照表)は、会社の「健康状態」を示す診断書です。
- 経営者個人からの借入金や、使途不明の仮払金などはありませんか?
- 回収見込みのない売掛金が放置されていませんか?
- こうした「不純物」は、M&Aの土壇場で価値を大きく下げる要因になります。普段からクリーンなBSを維持する意識が重要です。
- CF(キャッシュフロー)は、会社の「生命線」です。
- 利益は出ているのに、なぜか手元にお金が残らない…そんな経験はありませんか?
- 安定したキャッシュフローを生み出す力は、事業の安定性を何よりも雄弁に物語ります。
PL上の利益を追い求めるだけでなく、BSの健全化と、安定したCFの創出を意識すること。これが、いざという時にあなたの会社の交渉力を最大化させるのです。
教訓③ M&Aのタイミング:会社が「最も輝いている瞬間」こそ、次の一手を考える時
多くの経営者が陥りがちな間違い。それは、「事業が厳しくなってきたから、売却を考えよう」という発想です。これは、はっきり言って最悪のタイミングです。苦しい状況では、買手から足元を見られ、買い叩かれるのが関の山でしょう。考えてみてください。あなたが何かを買う時、下り坂のものと、これからもっと伸びそうなもの、どちらに高いお金を払いたいですか?答えは明白です。
M&Aで最高の条件を引き出すタイミングは、皮肉なことに「事業が絶好調で、売る必要など全く感じていない時」なのです。売上も利益も右肩上がりで、社内の士気も高い。そんな「最も輝いている瞬間」にこそ、経営者は冷静に次の一手を考えるべきです。このままIPOを目指すのか、それとも大手と組んで非連続な成長を目指すのか。最高の選択肢を選べるのは、業績がピークの時だけです。そのタイミングを逃さないためにも、「M&Aはいつでも取れる選択肢の一つだ」という意識を、常に頭の片隅に置いておくことが重要なのです。
Q&A
最後に、経営者の皆様からよくいただくご質問にお答えします。
Q1. 赤字の会社でも売却できますか?
A1. 可能性は十分にあります。赤字の理由にもよりますが、例えば、独自の技術を持っている、将来性の高い顧客基盤を抱えている、優秀なエンジニアチームがいる、といった場合は、利益が出ていなくても高く評価されるケースがあります。大切なのは、赤字という事実だけでなく、その背景にある「将来への価値」をきちんと説明できることです。
Q2. 従業員には、いつ話すべきでしょうか?
A2. これは非常にデリケートで、経営者が最も悩む問題の一つです。一般的には、買手企業との間で基本的な条件が固まり、法的拘束力のある契約(基本合意契約)を結んだ後、最終契約の直前といったタイミングが考えられます。情報が早期に漏れると、従業員の動揺や事業への影響が大きくなる可能性があるため、タイミングについては専門家と慎重に相談することをお勧めします。
Q3. M&Aアドバイザーは本当に必要ですか?
A3. 必須ではありませんが、成功のためには信頼できるパートナーを見つけることが極めて重要だと考えます。買手は百戦錬磨のプロです。経営者お一人で交渉に臨むと、情報量や交渉力の差から、不利な条件を飲んでしまう可能性があります。適正な企業価値を算定し、複数の候補先と交渉し、最も良い条件を引き出す。そのための「戦略的パートナー」がアドバイザーの役割です。
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