M&A(企業の合併・買収)を通じて会社を売却することは、経営者にとって人生最大の決断であり、一つのゴールです。しかし、譲渡契約書(SPA)に署名し、対価が振り込まれた瞬間にすべてが完結するわけではありません。
むしろ、本当の意味での「M&Aの成否」が決まるのは、売却後の数年間、いわゆる「ロックアップ期間(継続勤務・関与期間)」をいかに過ごすかにかかっています。
「価格交渉で成功しても、ロックアップの設計で失敗し、最終的に心身を病んだり、手にした対価を失ったりする経営者は少なくありません。」
本記事では、会社売却を検討されている皆様が最も不安に感じる「売却後の身の振り方」と「法的・経済的な拘束」の実態について、実務家としての手の内をすべて明かします。
1. M&Aにおける「ロックアップ」の正体と、買い手の本音
M&A実務におけるロックアップとは、売り手(元オーナー経営者)が一定期間、役員、従業員、または顧問として会社に留まり、事業の円滑な承継をサポートすることを約束する枠組みです。
なぜ買い手はあなたを「拘束」したがるのか
買い手が最も恐れているのは、買収した瞬間に「会社の魂」が抜けてしまうことです。中小・中堅企業において、以下の4要素は社長個人の「属人性」に強く紐づいています。
- 取引の維持(リレーション): 「社長の顔」でつながっている大口顧客の離反リスク。
- 人材の安定(リテンション): 「社長が辞めるなら俺も辞める」というキーマンの連鎖退職。
- ノウハウの移植: 現場の細かな判断基準や、暗黙知としての経営ノウハウの伝達。
- PMI(統合プロセス)の加速: 買い手側の文化を浸透させる際の「調整役」としての期待。
【用語解説:属人性(ぞくじんせい)】
特定の人(この場合は社長)がいないと、その仕事が進まなかったり、価値が失われたりする状態のこと。M&Aではこの属人性をいかに「組織」へ移管できるかが買収価格に直結します。
ロックアップの一般的な期間と形態
実務上、期間は「2年〜3年」がボリュームゾーンです。形態としては「取締役(常勤・非常勤)」として残るケースもあれば、責任を軽減した「顧問・コンサルタント」として関与するケースもあります。
2. 「職業選択の自由」と契約の縛り:法的な境界線
ここで多くの経営者が抱くのが、「日本には憲法で認められた職業選択の自由がある。辞めたい時に辞められないのはおかしくないか?」という疑問です。
憲法22条との関係:強制はできないが、責任は伴う
結論から申し上げれば、「いかなる理由があっても辞めることを許さない」という強制労働的な縛りは、公序良俗に反し、法的にも無効とされる可能性が極めて高いです。
しかし、M&Aは高度に商業的な取引です。買い手は「あなたが一定期間サポートしてくれること」を前提に、その対価(買収金額)を算出しています。そのため、以下の2点は法的に正当な制約として認められやすいのが実情です。
- 競業避止義務(きょうぎょうひしぎむ):売却した会社と類似する事業を一定期間、特定の地域で行わない義務。会社法第21条(事業譲渡の場合)に準じ、株式譲渡でも契約で「退職後2年間」程度の設定は一般的です。
- 善管注意義務(ぜんかんちゅういぎむ):役員として残る以上、会社の利益のために誠実に働く義務。
つまり、「辞める自由はあるが、無責任に辞めたことによって買い手に損害を与えた場合の『経済的ペナルティ』は、有効な契約として成立する」ということです。
3. 途中退任時に起きる「経済的ペナルティ」の実像と相場
「もし途中で辞めたら、売却代金を返さなければならないのか?」この問いに対し、実務では「罰金」という直接的な表現は避け、以下の4つのような「対価の調整」として設計されます。
① アーンアウト(後払い)の不支給
最も多いパターンです。譲渡対価の一部(例:全体の20〜30%)を、「2年後の利益目標達成」や「2年間の在籍」を条件に後払いにする仕組みです。途中で辞めれば、この分を受け取る権利が消滅します。
② 譲渡対価の返還(クラウバック条項)
一度全額を受け取ったものの、一定期間内に自己都合退職した場合、その一部(例:対価の10〜20%)を買い手に払い戻すという条項です。
③ 表明保証違反・補償条項への紐付け
「引継ぎが不十分で顧客が流出した」「重要な情報を開示していなかった」などの事由を、表明保証違反とみなして損害賠償請求の対象にする形です。
ペナルティ(調整額)の相場感
事案の性質(属人性の強さ)により大きくブレますが、プロの現場でよく見られる「実質的な拘束力を持つ金額」の目安は以下の通りです。
| 企業特性 | 経済的拘束(ペナルティ)の目安 | 理由 |
| オーナー依存度:低 | 譲渡価額の5%〜10% | 組織化が進んでおり、引継ぎが容易なため。 |
| オーナー依存度:中 | 譲渡価額の10%〜30% | 一般的な中小企業。顧客維持に社長の関与が必要。 |
| オーナー依存度:高 | 譲渡価額の30%〜50%超 | 社長=商品そのもの(士業、ITコンサル等)。 |
※これらはあくまで「調整枠」の目安であり、固定の相場ではありません。買い手がPEファンド(投資会社)か事業会社かによっても、この設計思想は劇的に変わります。
4. なぜ揉めるのか?現場で見た「3つの衝突パターン」
ロックアップを円満に完走できるケースは、実はそれほど多くありません。決裂の引き金となるのは、契約書の中身以上に「感情」と「現場の摩擦」です。
パターン①:オーナーから「部下」への急転換に耐えられない
昨日の今日まで全権を握り、自分の判断ですべてを決めてきた社長が、翌日からは買い手企業の担当者(時には自分より一回りも若い課長クラス)に承認を求め、経費の領収書一枚に理由を書かされる。この「心理的な格下げ感」に耐えられず、「金なんていらないから辞めてやる!」となるケースが後を絶ちません。
パターン②:文化摩擦(カルチャーショック)
中小企業の強みである「即断即決」と、買い手(特に大企業・上場企業)の「ガバナンスと手続き」が衝突します。 「現場でトラブルが起きているのに、稟議に2週間かかる。これでは顧客に申し訳ない」という板挟みに遭い、元オーナーが買い手の方針を無視して動いてしまう。これが「善管注意義務違反」を問われる火種になります。
パターン③:アーンアウト目標の「後出しジャンケン」
契約時に設定した利益目標が、M&A後の環境変化や、買い手から派遣された役員が投入した「共通費用(親会社への管理費等)」の配賦によって、達成困難になるケースです。「買い手がわざと利益を削って、後払いを免れようとしている」という疑念が生まれると、一気に泥沼の紛争へ発展します。
5. 紛争を回避し、幸福なリタイアを迎えるための「3つの処方箋」
M&A後の不幸な決裂を防ぐために、譲渡契約書(SPA)の段階で仕込んでおくべき実務的な防衛策を公開します。
① 「Good Leaver / Bad Leaver」を明確に定義する
「辞めたら一律ペナルティ」とするのではなく、退任の理由によって扱いを分けるのがグローバルスタンダードです。
- Good Leaver(円満退職): 自身の病気、家族の介護、買い手側による重大な契約違反(給与未払い等)による退任。この場合は、後払い分も全額支払うか、比例配分で受け取れるよう設計します。
- Bad Leaver(背信的退職): 競業他社への転職、会社資産の横領、正当な理由なき職務放棄。この場合は、厳格なペナルティを課します。
この線引きを明確にすることで、万が一の事態に対する「保険」をかけておきます。
② 役割を「経営者」から「技術・営業顧問」へシフトさせる
役員(取締役)として残ると、法律上の重い責任が伴います。可能であれば、最初から「権限を持たない顧問(コンサルタント)」として契約を結び、職務内容を具体的に限定することをお勧めします。「週3日勤務」「主要顧客A社とB社の引継ぎに特化」「新卒採用の面接官」など、“残ること”ではなく“何を成すか”をKPIに据えることで、ストレスを大幅に軽減できます。
③ 「情報開示」を徹底し、表明保証の爆弾を潰す
ロックアップ期間中のトラブルの多くは、DD(買収監査)で隠していた「負の情報」が、売却後に露呈することから始まります。
「実は主要な従業員に不満が溜まっている」「不適切な会計処理が一部あった」といった事実は、売却前にすべて白日の下にさらしてください。
不都合な真実を事前に開示し、それを織り込んだ価格で売却することが、結果として売却後のあなたの自由を守ることになります。
6. まとめ:M&Aの成功は「売り方」ではなく「手放し方」で決まる
会社を売却することは、決して「逃げ」でも「終わり」でもありません。あなたが築き上げた価値を、より大きな資本や組織に託し、次のステージへ昇華させるための「バトンタッチ」です。
ロックアップ期間は、そのバトンを落とさないための併走期間です。
確かに一定の不自由は伴いますが、それを「拘束」と捉えるか、「自身のレガシー(遺産)を完成させるための準備期間」と捉えるかで、結果は180度変わります。
プロによる「ロックアップ・着地設計」のセカンドオピニオン
現在、M&Aの検討を進めている方、あるいは既に提示されている条件(LOIやSPA)に不安を感じている方へ。
- 提示されているロックアップ期間は、事業特性から見て妥当か?
- アーンアウトの条件が、買い手の裁量に委ねられすぎていないか?
- 「Good Leaver」の条項は、あなたの権利を守れる内容になっているか?
20年の経験に基づき、契約書の中に隠れた「爆弾」を見つけ出し、現実的な落とし所をアドバイスいたします。
「売った後で後悔しないために。まずは、その契約書の『行間』にあるリスクを可視化することから始めませんか。」
免責事項:
本記事の内容は一般的な情報提供を目的としており、個別案件の法的・税務的な判断を保証するものではありません。M&Aの実行に際しては、必ず弁護士、税理士、公認会計士等の専門家に直接相談し、最新の法令に基づいた判断を行ってください。



















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