M&A(企業の合併・買収)という、経営者にとって人生最大の決断。そのプロセスにおいて、最も重要なターニングポイントの一つが「基本合意書(LOI:Letter of Intent / MOU:Memorandum of Understanding)」の締結です。
「まだ最終契約ではないから、後で修正すればいい」という甘い認識でこの書類に署名してしまうと、最終局面で大幅な減額を突きつけられたり、最悪の場合は破談に追い込まれたりするリスクがあります。「基本合意書で妥協した案件は、最終的に売り手に不利な条件で着地する」という厳しい現実です。
1. 基本合意書(LOI/MOU)の本質的な役割とは
基本合意書とは、交渉の中盤段階で、譲渡側(売り手)と譲受側(買い手)が「現時点での主要な合意事項」を文書化するものです。
1-1. 意向表明書(LOI)との決定的な違い
まず整理しておきたいのが、意向表明書(LOI)との違いです。
- 意向表明書: 買い手から売り手へ送られる「一方的なプロポーズ(提案)」です。
- 基本合意書: 提案を受け、双方が話し合った結果をまとめた「婚約(合意)」です。
1-2. 実務上の2つの目的
基本合意書を締結する実務上の目的は、大きく分けて2つに集約されます。
- 主要条件の固定: 譲渡価格、スキーム(手法)、役員の処遇、PMI(買収後の統合プロセス)の前提など、骨組みを固めます。
- 独占交渉権の付与: 買い手が多額の費用をかけて詳細調査(DD)を行う見返りとして、売り手が他の候補者と交渉することを一定期間禁止します。
2. 経営者が署名前に潰すべき「3つの地雷」
基本合意書で最もトラブルになりやすいポイントを、実務家の視点で掘り下げます。
① 価格条項:その「金額」は本当に守られるのか?
多くの基本合意書では、価格は「○億円〜○億円」といったレンジ(幅)や、「純資産+営業権(のれん)○年分」といった数式で記載されます。
用語解説:営業権(のれん)
企業のブランド力、技術力、顧客基盤など、帳簿上の資産には表れない「目に見えない価値」のこと。
ここで注意すべきは、「減額のロジック」が買い手裁量になっていないかという点です。「DDの結果、買い手が合理的と判断した場合は修正できる」といった曖昧な文言は、買い手にとっての「減額カード」になり得ます。
② 独占交渉権:強すぎる拘束は「人質」と同じ
独占交渉権(Exclusivity)の期間が長すぎると、売り手は不利になります。
- リスク: 買い手がDDを引き延ばし、独占期間の終了間際に「重大なリスクが見つかったので3割減額してほしい」と迫るケース(いわゆる「後出しジャンケン」)があります。
- 対策: 期間は3ヶ月程度とし、進捗が見られない場合には解除できる条項を盛り込むべきです。
③ 法的拘束力:どこが「非拘束」で、どこが「拘束」か
基本合意書は原則として「非拘束(法的義務を負わない)」ですが、以下の項目は「法的拘束力あり」とされるのが通例です。
- 秘密保持義務
- 独占交渉権
- 公表の禁止(他言無用)
- 費用負担の原則これら以外の価格や譲渡実行そのものには拘束力を持たせないことで、最終的な安全弁を残します。
3. 実務家が教える「税後手取り」の最大化戦略
経営者にとって本当に重要なのは、売却額面ではなく「自分の手元にいくら残るか」です。
3-1. スキーム選択の重要性
基本合意の段階で「株式譲渡」か「事業譲渡」かを確定させておく必要があります。
| スキーム | 売り手の主な課税 | 特徴 |
| 株式譲渡 | 譲渡所得税(約20%) | 手続きが簡便で、税負担が最も軽くなることが多い。 |
| 事業譲渡 | 法人税(約30〜34%) | 会社に資金が残り、個人が受け取るにはさらに配当課税等がかかる。 |
「買い手が事業譲渡を希望しているが、売り手は手取りを重視して株式譲渡を譲らない」といった対立は、基本合意前に解消しておくのが定石です。
4. デューデリジェンス(DD)で減額されないための準備
基本合意の直後には、買い手による「徹底的な身体検査」であるデューデリジェンス(DD)が控えています。
4-1. 減額のターゲットになりやすい論点
以下の項目は必ずと言っていいほど精査されます。
- 未払残業代: 過去2〜3年の労務実態。
- 税務リスク: 役員借入金、私的経費の混入、消費税の処理。
- 在庫・売掛金: 滞留在庫や回収不能な債権の計上。
- 契約書: 「チェンジ・オブ・コントロール条項(親会社が変わると契約解除できる条項)」の有無。
4-2. 「不都合な真実」は基本合意前に出す
「DDで見つからなければいい」という考えは極めて危険です。プロの調査官は必ず見つけ出します。基本合意の前に自らリスクを開示することで、「リスクがあるからこの価格(あるいは、リスクを考慮した上でのこの価格)」という合意形成ができ、DD後の減額を未然に防ぐことができます。
5. 【論理的解説】誠実交渉義務とブレイクアップ・フィー
基本合意には、法的な議論を呼ぶ高度な論点が含まれます。
5-1. 誠実交渉義務とは
たとえ価格に拘束力がなくても、双方は「成約に向けて誠実に努力する義務」を負います。理由なきドタキャンや、不当な条件の吊り上げは、相手方から損害賠償(DD費用の実費など)を請求されるリスクを孕んでいます。
5-2. ブレイクアップ・フィー(解約手当金)
特に中規模以上の案件では、一方的な破談に対するペナルティ(違約金)を設定することがあります。
専門家のアドバイス:
売り手としては、安易にこの条項を入れないことが賢明です。どうしても入れる場合は、適用条件を「買い手が提示価格を維持しているにもかかわらず、売り手が正当な理由なく売却を中止した場合」など、極めて限定的にすべきです。
6. アドバイザーの質を見極める「基本合意書」のチェックリスト
あなたの担当アドバイザーが優秀かどうかは、基本合意書のドラフト(案)を見れば一目瞭然です。
- 期限: DDの終了期限や最終契約の予定日が明記されているか?
- 役員処遇: オーナーの引継ぎ期間や報酬、従業員の雇用継続が考慮されているか?
- 調整条項: ネットデット(現預金と負債の調整)の計算方法が明確か?
- 解除条件: どのような場合に独占交渉権を解除できるか、売り手に逃げ道があるか?
「これはひな形(テンプレート)通りですから大丈夫です」という言葉で片付けるアドバイザーには注意が必要です。M&Aにテンプレートなど存在しません。 1社1社、論点は異なるはずです。
7. まとめ:基本合意書は「交渉力を温存する設計図」
基本合意書は、単なるプロセスの通過点ではありません。
それは、「売り手が交渉力を失わずに、最終成約というゴールへ辿り着くための設計図」です。
- 独占交渉権という「人質」を最小限に留める。
- 減額の余地を客観的な指標で縛る。
- 税後手取りのシミュレーションを終えてから署名する。
これらを徹底するだけで、M&Aの成功確率は劇的に高まります。
FAQ(よくある質問)
Q1. 基本合意書(LOI/MOU)に法的拘束力はありますか?
原則として、譲渡価格や実行義務など「取引の本体部分」は非拘束とされることが多いです。一方で、秘密保持・独占交渉権・費用負担・準拠法・裁判管轄などは拘束力を持たせるのが実務です。
Q2. LOI(意向表明書)と基本合意書(MOU)の違いは何ですか?
LOIは、買い手が売り手に示す一方的な提案書です。基本合意書(MOU)は、売り手と買い手が合意内容を共有し、DDと最終契約に進む前提を確定する書面です。
Q3. 基本合意書を締結したら、売却は確定ですか?
確定ではありません。ただし基本合意以降は、独占交渉権により「他の買い手と交渉できない時間」が発生するため、実務上は後戻りが難しくなります。
Q4. 基本合意書にサイン後、途中で破談はできますか?
可能です。ただし、売り手都合での中止は、
- 誠実交渉義務違反の紛争リスク
- ブレイクアップフィー(解約手当)
- 評判・取引先への波及
を伴うことがあります。
Q5. 独占交渉権(Exclusivity)とは何ですか?期間はどのくらいですか?
独占交渉権とは、売り手が一定期間、他の買い手候補と交渉しない義務です。期間は 3〜6か月が多いですが、重要なのは期間よりも解除条件(買い手遅延時に解除できるか)です。
Q6. 基本合意書で「価格レンジ(幅)」は普通ですか?
普通です。ただし危険なのは、レンジの中で買い手が恣意的に下限へ寄せられる設計になっているケースです。
「減額条件」「調整式」「定義」を必ず固定する必要があります。
Q7. 基本合意書の価格は、後から変えられますか?
実務上は変わります。特にDDで、簿外債務・未払残業代・税務リスク・主要顧客離反等が見つかると、減額交渉が起きます。そのため基本合意では、減額可能な条件の範囲を限定しておくことが極めて重要です。
Q8. 「DD後に減額」は当たり前ですか?
当たり前ではありません。減額が常態化する案件は、事前に売り手側で
- 論点整理
- リスク開示
- 反論資料準備
ができていないことが原因であるケースが大半です。
Q9. 基本合意書でスキーム(株式譲渡/事業譲渡)は決めるべきですか?
原則、決めるべきです。理由は、税務が根本的に違い、最終手取りが数千万円〜数億円単位で変わるためです。
スキームが曖昧なままだと、最終盤で買い手都合に寄せられやすくなります。
Q10. 基本合意書で「手取り(税後キャッシュ)」まで確認すべきですか?
必須です。経営者が見るべきなのは譲渡価格の額面ではなく、税引後のネットキャッシュ(最終手残り)です。
基本合意の前に、株式譲渡/事業譲渡それぞれで税務シミュレーションすべきです。
Q11. 基本合意書の段階で弁護士レビューは必要ですか?
必要です。最終契約(SPA)で揉める火種の多くは、基本合意で
- 独占
- 解除条件
- 価格調整の前提
を曖昧にしたことが原因です。
基本合意=最終契約の勝負がほぼ決まる局面です。
Q12. 基本合意書で「必ず入れるべき条項」は何ですか?
売り手視点で最低限必要なのは以下です。
- 独占交渉権の解除条件(買い手遅延・条件変更)
- DDの期限と範囲
- 価格調整の計算式(ネットデット/NWC等)
- 最終契約の主要条件(ロックアップ・アーンアウトの方向性)
- 守秘義務・情報取扱い
Q13. 基本合意書で「絶対に避けるべき条項」はありますか?
あります。典型的な危険条項は以下です。
- 買い手が自由に減額できる条文(裁量減額)
- DD期限なし(調査が終わらない)
- 売り手だけを拘束する独占(解除不能)
- ブレイクアップフィーが広い(原因無限定)
- 売却後の拘束(ロックアップ・アーンアウト)が重すぎる
Q14. ブレイクアップフィー(解約手当金)は入れるべきですか?
ケースによりますが、売り手は慎重であるべきです。入れるなら、適用条件を
- 「売り手の故意の撤回」などに限定
- 金額の上限(キャップ)
- 買い手都合の撤回時は対象外
にするのが実務上の防衛策です。
Q15. 基本合意書の段階で、売り手が準備すべきことは何ですか?
DD開始前に、最低限次を整えるべきです。
売却後(ロックアップ)の役割と条件の整理
財務・税務・労務のリスク洗い出し
開示資料の整備(DDルーム準備)
主要契約・許認可・人員の論点整理
「減額論点」への反論材料(定量説明)
免責事項:
本記事の内容は一般的な情報提供を目的としており、特定の案件に対する法的・会計的・税務的な助言を構成するものではありません。実際の交渉や契約に際しては、必ず弁護士、公認会計士、税理士等の専門家にご相談ください。



















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