クロージング(決済)の日、指定した銀行口座に数億、時には数十億円というキャッシュが着金する。その瞬間、多くのオーナー経営者は歓喜するというよりは、ある種の「呆然」とした表情を浮かべます。
「本当に終わったんだな」という安堵と同時に、これほど巨額の現金を個人で持つことへの漠然とした不安が押し寄せるのです。
M&Aによる会社売却は、経営者にとって「創業者利益の確定」であり、人生最大のキャッシュポイントです。しかし、ここには大きな落とし穴があります。それは、「経営のプロ」が必ずしも「資産運用のプロ」ではないという事実です。
会社を成長させる攻めのスキルと、資産を減らさずに守る守りのスキルは、使う筋肉が全く異なります。本章では、売却後に直面する「税金」「資産管理」「相続」という3つの壁を乗り越え、真の自由を手にするためのロードマップを描きます。
1.「税金」の正体を知る:M&A課税の基礎と落とし穴
まず、避けて通れないのが税金の話です。M&Aで株式を譲渡した場合、その利益(譲渡益)に対して税金がかかります。
株式譲渡益課税の仕組み
個人が株式を売却した場合、その利益は「申告分離課税(しんこくぶんりかぜい)」の対象となります。
用語解説:申告分離課税 給与所得や事業所得など、他の所得とは切り離して、独自の税率で税金を計算する制度のこと。累進課税(所得が増えるほど税率が上がる仕組み)の影響を受けません。
現在の税率は、一律で20.315%(所得税15%+復興特別所得税0.315%+住民税5%)です。
例えば、資本金1,000万円で設立した会社を10億円で売却した場合、 (10億円 - 1,000万円 - 売却手数料等) × 20.315% ざっくりと言えば、約2億円の税金が発生し、手元には約8億円が残ります。
ここでのポイントは、「給与所得(最高税率約55%)に比べて圧倒的に有利」という点です。M&Aが「究極の節税」と呼ばれる所以はここにあります。役員報酬で数億円を取れば半分以上持っていかれますが、株式譲渡なら約2割で済むのです。
翌年の「住民税」と「社会保険料」の罠
しかし、注意すべきは「翌年」です。 住民税(5%分)は、売却した翌年の6月から徴収が始まります。数千万円単位の納税通知書が届くことになりますが、すでにその現金を別の投資や浪費に使ってしまっていると、資金ショートを起こします(笑い事ではなく、実際に散見されるケースです)。
また、会社を売却して役員を退任し、国民健康保険に切り替える場合、前年の所得(株式譲渡益含む)によっては保険料が上限額(年間約100万円程度)に張り付きます。ここも計算に入れておく必要があります。
2.「プライベートカンパニー」の活用:資産防衛の要塞を築く
さて、ここからが本題です。M&Aで得た数億円のキャッシュ。これを個人の預金口座に入れたままにしておくのは、資産防衛の観点からは「無防備」と言わざるを得ません。
なぜなら、個人の財布から支出するあらゆるコスト(交際費、車、家賃など)は、原則として「経費」にならないからです。税引後の貴重なお金を取り崩していくだけの生活になってしまいます。
そこで私が強く推奨しているのが、売却後に「プライベートカンパニー(資産管理会社)」を設立するという手法です。これは、参考書籍『社長の賢い節税(福岡雄一郎著)』でも提唱されている「法人活用の極意」を、M&A後の資産家に応用するものです。
なぜ、再び会社を作るのか?
「せっかく会社を売って自由になったのに、また社長になるのか?」と思われるかもしれません。しかし、ここでの会社は「事業を行う会社」ではなく、「資産を守り、運用するための器(うつわ)」です。
M&Aで得た個人資金の一部を、この新設法人に貸し付けたり、出資したりして運用を開始します。
プライベートカンパニーのメリット
① 経費の最大活用(生活の経費化)
個人では家事費として認められないものでも、法人の事業活動(不動産賃貸業や投資事業など)に関連していれば、経費計上が可能です。
- 社用車: 投資物件の視察や打ち合わせに使用する車両。
- 社宅制度: 会社が自宅を借り上げ、個人に貸すことで、実質的な家賃負担を大幅に減らす。
- 出張手当(日当): 投資調査のための出張に対し、非課税で日当を支給する。
これらは『社長の賢い節税』でも強調されている基本テクニックですが、資産数億円規模の管理会社であれば、よりダイナミックかつ正当性を持って運用が可能です。
② 社会保険料の適正化
会社を売却して無職(個人投資家)になると、国民健康保険・国民年金に加入します。しかし、プライベートカンパニーを設立し、そこから少額の役員報酬を受け取ることで「社会保険(健康保険・厚生年金)」に加入し続けることができます。 役員報酬を月額数万円〜十数万円程度に設定すれば、個人の社会保険料負担は最低限に抑えられ、かつ将来の厚生年金受給権も維持できます。これは非常にコストパフォーマンスの高い「守り」です。
③ 所得分散効果
資産運用益をすべて個人で受け取ると、利益が増えるほど所得税率が上がります(累進課税)。しかし、法人で利益を受ければ、法人税率は一定(中小法人なら年800万円以下の所得は約15%〜、実効税率でも約23〜33%)です。 さらに、配偶者や子供を役員にし、業務実態に合わせて報酬を支払うことで、所得を分散し、世帯全体の税負担を下げることが可能です。
3.最大の敵は「相続」:キャッシュは最悪の相続資産
M&A売却後の相談で、最も深刻なのが「相続対策」です。 はっきり申し上げます。「現金」は、相続税評価において最も効率の悪い資産です。
現金10億円の評価額は「10億円」
当たり前のことですが、現金10億円は相続税評価額も10億円です。 日本の相続税の最高税率は55%(6億円超の部分)。何も対策をしなければ、あなたが汗水を垂らして作り、M&Aで現金化した資産の約半分が、相続発生時に国庫へ還付されます。「三代続けば資産はなくなる」という言葉は、日本の税制においては真実です。
「資産の組み換え」による評価減
そこで重要になるのが、現金を「評価額が下がる資産」に組み換えることです。
- 不動産への組み換え 土地や建物は、時価(購入価格)よりも、相続税評価額(路線価や固定資産税評価額)が低くなる傾向があります。
- 土地:時価の約80%程度
- 建物:時価の約60%程度 さらに、賃貸用不動産にすることで「貸家建付地」等の評価減が適用され、現金のまま持つよりも評価額を大幅に(時には50%以下に)圧縮できる可能性があります。
- プライベートカンパニーの株式としての承継 前述のプライベートカンパニーを活用します。個人で不動産を持つのではなく、会社で不動産を持ち、その「会社の株式」を後継者に贈与・相続させるのです。 株式の評価方法(純資産価額方式など)をうまく活用し、株価が低いタイミング(例えば、不動産購入直後で負債がある、償却費で利益が低い時期など)で次世代へ移転することで、効率的な承継が可能になります。
注意点: 露骨な租税回避行為(相続直前にタワマンを買ってすぐ売るなど)は、国税庁から否認されるリスクがあります(いわゆる総則6項の適用など)。あくまで「事業としての不動産賃貸」や「長期的な資産管理」という実態が必要です。
4.投資と運用の哲学:M&A長者の「失敗するパターン」
ここまでは制度の話でしたが、ここからは私の経験に基づく「失敗学」をお伝えします。 M&Aで大金を手にした後、資産を大きく減らしてしまう人には共通点があります。
失敗パターン①:慣れない「金融商品」への一点張り
「年利10%確実」といった怪しいプライベートバンク案件や、仕組み債、暗号資産などに、退屈しのぎも兼ねて大金を投じ、溶かしてしまうケース。 事業経営で成功した自信(自分には目利き力があるという過信)が、金融の世界では命取りになります。金融と事業は別物です。まずは「減らさないこと(インフレ負けしない程度の2〜4%運用)」を目標に、世界中の株式や債券への分散投資(インデックスファンド等)をコアに据えるのが、品ある資産家の定石です。
失敗パターン②:安易なエンジェル投資
「若手起業家を応援したい」という志は素晴らしいですが、M&A直後のハイな状態で、次から次へと出資するのは危険です。エンジェル投資は9割が紙切れになると考えてください。 資産の10%まで、といった明確な「遊び枠(リスク許容枠)」を決めておかないと、あっという間に流動資産が枯渇します。
5.おわりに:M&A後の人生を「デザイン」する
資産防衛や節税のテクニックについて述べてきましたが、最後に最もお伝えしたいことがあります。 それは、「何のために資産を守るのか」という目的の再定義です。
会社を売却すると、多くの経営者は「承認欲求の喪失」に苦しみます。 「社長」と呼ばれなくなり、毎日のスケジュールが真っ白になる。 高級車を買っても、海外旅行に行っても、3ヶ月で飽きます。これは私が担当した多くの元オーナーが口を揃えて言う真実です。
資産防衛(マネープラン)は、あくまで手段です。 その資金を使って、
- もう一度、新しいビジネスで世の中を驚かせたいのか。
- 家族との時間を最優先し、教育や体験に投資したいのか。
- 財団を作って、社会貢献活動に没頭したいのか。
この「人生のコンセプト」が決まって初めて、最適な法人スキームや投資ポートフォリオが決まります。
M&Aはゴールではありません。 あなたの第二の人生を、経済的な不安なく、最高に輝かせるための「最強のチケット」です。 そのチケットを無駄にしないよう、賢明な知識と、信頼できる専門家(税理士、弁護士、そして私たちのようなアドバイザー)を味方につけてください。
あなたの新しい挑戦が、素晴らしいものになることを心より祈念しております



















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