2025年11月28日に発表されたBIPROGY(旧日本ユニシス)によるカタリナマーケティングジャパン(以下、CMJ社)の親会社・Yosemite1株式会社の買収は、日本のIT・リテール業界における「データ活用の覇権争い」を象徴する非常に興味深い事例です。
本件は、単なるIT企業の事業拡大ではありません。「SIer(システムインテグレーター)が、労働集約型のビジネスモデルから、データという資産(アセット)を持つプラットフォーマーへと脱皮するための、極めて高額かつ戦略的な投資」と読み解くことができます。
本章では、公表された資料を基に、この約400億円という巨額買収の「バリュエーション(企業価値評価)」の裏側、そして実務的な注目ポイントである「アドバイザリー費用」や「ファンド案件特有の構造」について、専門用語を噛み砕きながら解説していきます。
1. 案件の全体像と「405億円」の重み
まずは、今回のディールの骨子を整理しましょう。
- 買収手口: 株式譲渡(100%取得)
- 買収価格(株式価値): 約397億円
- アドバイザリー費用等: 約8億円
- 総額: 約405億円
- 売手: D Capital 1号投資事業有限責任組合(PEファンド)
- 買手: BIPROGY株式会社
- 対象会社: Yosemite1株式会社(CMJ社の持株会社)
BIPROGYは、CMJ社の親会社であるYosemite1の全株式を取得し、その後に両社を合併させるスキーム(枠組み)を採用しています。ここで特筆すべきは、対象会社の直近の業績(2024年12月期見込)と買収価格の乖離(かいり)です。
- 連結売上高: 約99億円
- 連結営業利益: 約4.3億円
- 純資産: 約25億円
- 買収価格: 397億円
数字に明るい読者の方なら、この時点で「おや?」と思われるはずです。営業利益4.3億円の会社に、約400億円の値がついているのです。単純計算で、利益の約90倍、売上の約4倍、純資産の約16倍というプライシングです。
一般的な事業会社同士のM&Aであれば、営業利益の10倍〜15倍程度が相場とされることも多い中で、なぜこれほどのプレミアム(上乗せ価格)がついたのか。ここには、会計上の数字だけでは見えない「M&Aバリュエーションの妙」があります。
2. プロが読み解く「バリュエーション」の正体
M&Aにおいて、企業価値算定(バリュエーション)は最も論理的かつ、最も「アート(芸術的)」な領域です。今回の 397億円という価格を正当化するロジックを、実務家の視点で分解してみましょう。
① 会計上の利益と「実力値(EBITDA)」の乖離
まず、公表されている営業利益「4.3億円」をそのまま鵜呑みにしてはいけません。対象会社はPEファンド(D Capital)の傘下にありました。PEファンドが保有する企業では、過去の買収に伴う「のれん償却費」や「PPA(Purchase Price Allocation)償却費」が多額に計上され、会計上の営業利益が低く見えているケースが多々あります。
【用語解説】PPA(Purchase Price Allocation:取得原価の配分) 企業を買収した際、買収価格を「顧客リスト」「ブランド」「ソフトウェア」などの無形資産に割り振る会計処理のこと。これらは数年にわたって費用処理(償却)されるため、キャッシュアウト(現金の流出)は伴わないのに、会計上の利益だけが減ってしまう現象が起きます。
本件の実質的な収益力を測るには、EBITDA(イービットディーエー:償却前営業利益)を見る必要があります。
CMJ社のようなデータプラットフォーム企業の場合、多額のシステム償却や、過去の買収に伴うのれん償却が含まれているはずです。仮に償却費が年間10〜15億円程度あるとすれば、実質的なキャッシュフロー創出力(EBITDA)は20億円規模である可能性があります。
仮にEBITDAが20億円だとすれば、397億円という価格は「EBITDA倍率 約20倍」となります。これでも高水準ですが、SaaS企業や高成長テック企業であれば、決して不可能な数字ではありません。
② 「リテールメディア」という市場の希少性
今回の価格決定の最大の要因は、財務数値以上に「希少性(Scarcity)」にあります。
CMJ社は、スーパーやドラッグストアの「レジ通過データ(実購買データ)」を大規模にネットワーク化している、国内でも数少ないプレーヤーです。 昨今、「Cookie規制(Web上の追跡規制)」により、Web広告の精度が落ちています。その代わりとして、実店舗の購買データを持つ「リテールメディア」の価値が爆発的に高まっています。
BIPROGYにとって、自力でゼロから全国規模の小売店ネットワークとデータ基盤を構築するには、10年以上の歳月と数百億円の投資がかかるかもしれません。「時間を金で買う」というM&Aの鉄則において、この400億円は「再現不可能な参入障壁への対価」と評価されたと考えられます。
③ PSR(株価売上高倍率)による評価
利益が出ていない、あるいは先行投資フェーズのテック企業を評価する場合、売上高を基準にするPSR(Price to Sales Ratio)が用いられることがあります。
- 売上高:約100億円
- 買収価格:約400億円
- PSR:約4.0倍
グローバルなアドテク(広告技術)企業やデータ企業のM&Aにおいて、PSR 4倍〜5倍というのは、実はそれほど違和感のない水準です。BIPROGYは、CMJ社を「利益4億円の会社」としてではなく、「売上100億円で、かつ将来的にデータビジネスの中核となるプラットフォーム」として評価したと言えます。
3. アドバイザリー費用「8億円」の内訳と相場観
本件の開示資料には、非常に興味深い数字がさらりと書かれています。
取得価額の合計:約405億円(うちアドバイザリー費用等 約8億円)
この「8億円」について、実務的な観点から分析してみましょう。通常、M&Aのアドバイザリー費用(FA報酬)は、取引金額に応じて料率が決まる「レーマン方式」などが採用されますが、400億円規模の案件で8億円(対取引額比 約2%)というのは、「フルスペックかつ最高レベルの専門家を動員した」ことを示唆する金額です。
8億円の構成要素(推測)
この8億円には、以下の費用が含まれていると考えられます。
- フィナンシャル・アドバイザー(FA)報酬:
- 主幹事証券会社やM&A助言会社への報酬。通常、成功報酬として数億円規模。
- デューデリジェンス(DD)費用:
- 財務・税務DD: 大手監査法人系(Big4)による詳細な調査。
- 法務DD: 大手法律事務所による契約・労務・知財の調査。
- ビジネス・IT DD: CMJ社のシステムの堅牢性やデータ資産価値の算定、市場調査。
- バリュエーション算定書(株価算定)費用:
- 第三者機関による公正価値の算定レポート取得費用。
【用語解説】デューデリジェンス(DD) 買収対象企業の「健康診断」のこと。財務の嘘はないか、隠れた借金はないか、法的な訴訟リスクはないかなどを、弁護士や会計士等の専門家が徹底的に調査するプロセス。
特に今回は、相手方がプロの投資家である「PEファンド」です。彼らは会社を高く売るための準備(セラーズDD)を完璧に行っています。それに対抗し、適正な価格を見極め、リスクを洗い出すためには、買い手であるBIPROGY側もトップティア(一流)の専門家チームを組成する必要があったはずです。 8億円というコストは、一見高く見えますが、400億円の投資を失敗させないための「高額な保険料」としては妥当な水準、あるいは安全策を徹底した結果と言えるでしょう。
4. ファンド案件特有の「LBO」と「純損失」のカラクリ
資料の「Yosemite1」の財務数値を見ると、以下のようになっています。
- 営業利益:4.3億円
- 当期純利益:▲1.2億円(赤字)
なぜ営業黒字なのに最終赤字なのでしょうか? これもPEファンド案件によくあるLBO(Leveraged Buyout)の影響である可能性が高いです。
【用語解説】LBO(レバレッジド・バイアウト) 買収先の企業の信用力や資産を担保に、買収資金を銀行から借り入れて買収する手法。
Yosemite1は、CMJ社を買収するために設立された「受け皿会社(SPC)」です。この会社には、買収時に借り入れた多額の借入金(買収ローン)が存在している可能性が高いです。その「支払利息」が営業外費用として計上され、経常利益や純利益を押し下げているのです。
BIPROGYがYosemite1を買収・合併することで、これらの借入金はBIPROGYグループが返済するか、リファイナンス(借り換え)することになります。買収後にBIPROGYの信用力で低金利の資金に借り換えれば、この「赤字要因(金利負担)」は即座に改善します。 つまり、「現在の最終赤字」は、BIPROGYにとっての買収後のリスクではないと判断できます。これが、赤字会社を400億円で買うことができる論理的根拠の一つです。
5. 今後の懸念点と成功の鍵:のれんの減損リスク
最後に、M&Aアドバイザーとして、今後のBIPROGYの財務上のリスクについても触れておきます。
約25億円の純資産の会社を約400億円で買うわけですから、差額の約370億円程度が「のれん(Goodwill)」および「無形資産」としてBIPROGYの貸借対照表(B/S)に計上されます。
【用語解説】のれん(Goodwill) 買収価格と、買収した企業の純資産との差額。「ブランド力」や「将来の収益力」などの見えない価値。日本の会計基準では、これを最長20年で償却(費用化)する必要があります。
仮に20年で償却するとしても、年間約18億円〜19億円の償却費が、BIPROGYの営業利益を圧迫し続けます。CMJ社の現状の営業利益が4億円台だとすると、買収直後は会計上の利益が大きくマイナスになる(のれん償却負けする)構造です。したがって、BIPROGYとしては、以下のシナリオを早急に実現する必要があります。
- トップライン(売上)の拡大: BIPROGYの顧客基盤を活用し、CMJ社のサービスを拡販する。
- コストシナジー: 上場企業グループ入りによる管理コストの削減。
- 新規事業の創出: AIや需要予測など、高付加価値サービスによる利益率向上。
もし計画通りに利益が成長しなければ、将来的に巨額の「減損損失(のれんを一気に損失処理すること)」を迫られるリスクと隣り合わせの、非常に野心的なディールと言えます。
おわりに
今回のBIPROGYによるM&Aは、従来の「受託開発型」のビジネスモデルから、ストック型かつ高付加価値な「プラットフォーム型」ビジネスへの転換を賭けた、社運をかけた一手です。400億円という価格は、現在の財務諸表だけを見れば「割高」に見えます。しかし、リテールメディアという成長市場の「時間」と「シェア」を買ったと考えれば、数年後には「安い買い物だった」と評価される可能性も十分に秘めています。
M&Aの成否は、調印した日ではなく、数年後のPMI(買収後の統合プロセス)の結果で決まります。BIPROGYがこの「高価な素材」をどう料理し、本業と融合させていくのか。私たち専門家も、そして投資家も、冷静かつ期待を持って見守る必要があります。




















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