まず、皆様にお持ちいただきたい視点があります。それは「バックミラーで運転するか、フロントガラスを見て運転するか」の違いです。
- 伝統的M&A(成熟産業): 過去の実績(利益や純資産)を評価します。「これまでいくら稼いだか」というバックミラーを見て価格を決めます。
- スタートアップM&A(成長産業): 未来のキャッシュフローを評価します。「これからいくら稼げるか」というフロントガラスの景色だけを見て価格を決めます。
プロの投資家がAIやIT企業を見る際、現在の「赤字」は必ずしもマイナス評価ではありません。むしろ、「正しい赤字」であるならば、それは成長のための燃料と捉えられ、バリュエーションは跳ね上がります。
では、何をもって「正しい」とするのかを解説します。
第1章:「Jカーブ」の魔法と先行投資の正体
スタートアップの財務諸表、特にPL(損益計算書)を見ると、設立から数年は深い赤字が続くことが一般的です。これをグラフにすると、アルファベットの「J」の字のように、一度深く潜ってから急激に上昇する軌跡を描きます。これを「Jカーブ(J-Curve)」と呼びます。
なぜ赤字を掘るのか?
例えば、SaaS(月額課金型ソフト)ビジネスを想像してください。
顧客を1社獲得するために、広告宣伝費や営業人件費で100万円かかるとします(これをCAC:顧客獲得コストと呼びます)。
しかし、その顧客からは毎月5万円しか入ってきません。
- 会計上の見た目: 1年目は「売上60万円 – コスト100万円 = 40万円の赤字」です。
- 経済的実態: もしこの顧客が平均5年間契約してくれるなら、生涯で「300万円(5万×60ヶ月)」をもたらします。つまり、100万円の投資で300万円のリターン(3倍)が確定していることになります。
この場合、経営として正しい判断は、「黒字にするために営業を止める」ことではなく、**「手元の資金が尽きる限界まで赤字を掘って(=広告を打って)、将来の300万円の権利を今のうちに大量に確保する」**ことです。
プロの投資家は、PLの「営業赤字」という文字を見ても動じません。その中身が、将来の収益を生むための「投資」であると確信できれば、赤字額が大きければ大きいほど「成長スピードが速い」と評価し、高いバリュエーションを正当化するのです。
第2章:EBITDA倍率は捨てる~PSRとARRマルチプル~
伝統的なM&Aでは「EBITDAの5倍〜8倍」が相場と言われますが、急成長中のIT企業にこの物差しは通用しません。赤字であればEBITDAはマイナスになり、計算不能になるからです。
そこで我々が用いるのが、トップライン(売上高)をベースにした指標です。
1. PSR(Price to Sales Ratio:株価売上高倍率)
時価総額が売上の何倍かを見る指標です。AIやITセクターでは、利益が出ていなくても、売上が年率30%〜50%以上で成長していれば、売上の5倍〜20倍といった高いマルチプルがつくことがあります。
2. ARRマルチプル(Annual Recurring Revenue)
特にサブスクリプションビジネスで重視されます。「毎年決まって入ってくる収益(ARR)」の何倍か、という指標です。ストック性の高い売上は質が良いとされ、一過性の売上の数倍の価値がつきます。
投資家の脳内変換:
「今の売上は10億円だが、年率50%で成長している。3年後には33億円になる。その時の利益率が20%と仮定すれば、利益は約6.6億円。今の買収額50億円は、3年後の利益で見ればたったの7.5倍だ。これは安い!」
このように、投資家は「現在の数字」を「未来の時制」に変換して計算しているのです。
第3章:ユニットエコノミクス~1単位の経済性~
赤字でも高値がつく企業と、つかない企業。その分水嶺となるのが「ユニットエコノミクス(単位あたりの収益性)」です。
我々がデューデリジェンス(買収監査)で最も目を皿にしてチェックするのが以下の数式です。
LTV > 3 × CAC
- LTV (Life Time Value): 顧客1社が生涯で落としてくれる利益の総額
- CAC (Customer Acquisition Cost): 顧客1社を獲得するのにかかったコスト
「1万円を使って(CAC)、将来3万円以上返ってくる(LTV)」という方程式が成立しているならば、会社全体が今は赤字でも、アクセルを踏み続ければ必ず莫大な利益が出ます。これを「健全な赤字」と呼びます。逆に、この方程式が崩れている(例:1万円使って1万円しか回収できない)状態での赤字は、単なる「出血」です。この場合、バリュエーションは厳しく叩かれるか、そもそもM&Aが成立しません。
第4章:DCF法における「ターミナルバリュー」の魔力
バリュエーションの王道であるDCF法(ディスカウント・キャッシュフロー法)においても、スタートアップには特有の力学が働きます。成熟企業の価値は「直近数年のキャッシュフロー」が大きな割合を占めますが、スタートアップの場合、企業価値の80%以上が「ターミナルバリュー(永続価値)」によって構成されることが珍しくありません。
ターミナルバリューとは?
事業計画期間(通常5〜10年)が終わった後、その会社が永続的に生み出す価値のことです。
ITプラットフォーマーやAI企業は、「Winner Takes All(勝者総取り)」の世界です。一度市場シェアを独占すれば、ネットワーク効果(利用者が増えるほど便利になる効果)が働き、半永久的に高収益を上げ続けられます。GoogleやAmazonを思い浮かべてください。初期は大赤字でしたが、一度インフラとなれば、誰にも崩せない城となります。投資家は、この「将来の独占的地位」というチケットを買うために、現在の赤字を無視して巨額のプレミアムを支払うのです。
第5章:BSに載らない資産~「アクハイヤー」と「データ」~
財務諸表(BS)の「純資産」がマイナス(債務超過)であっても、数十億円で買収されるケースがあります。これは、BSに載らない無形資産(Intangible Assets)が評価されているからです。
1. Acqui-hire(アクハイヤー:人材買い)
特にAI分野では、優秀なエンジニアチームそのものに価値があります。「あの天才エンジニア5人のチームを採用するには、採用費と教育費で数億円かかるし、時間もかかる。ならば会社ごと20億円で買ったほうが早い」という判断です。これはM&Aというより、「時間を金で買う採用戦略」と言えます。
2. 独自のデータセットとアルゴリズム
AIの精度は「データの質と量」で決まります。もし御社が、他社が持っていない「業界特有の教師データ(例:熟練職人の微細な動作データ、特殊な医療画像データ)」を独占的に保有していれば、それだけで莫大な価値になります。買い手の大企業は、そのデータを自社のAIに食わせるだけで、数百億円のシナジーを生む可能性があるからです。
第6章:プロ投資家が恐れる「ダウンラウンド」のリスク
ここまで「なぜ高いか」を語ってきましたが、最後に実務家としてリスクについても触れねばなりません。
高すぎるバリュエーションは、時に「毒」になります。
もし、成長期待を織り込んで「売上の20倍」で資金調達をした後、成長が鈍化したらどうなるか?
次の調達やM&Aでの価格が前回を下回る「ダウンラウンド」が発生します。これは既存株主(VCなど)や従業員(ストックオプション保有者)のモチベーションを破壊し、組織崩壊を招く恐れがあります。
プロのアドバイザーは、単に「高く売る」ことだけを目指しません。
「買い手にとっても、買収後に成長を描ける余地(アップサイド)が残っているか?」
このバランスを見極めるのが、品格あるディールの要諦です。



















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