第1章:M&Aを業績不調の「最後の手段」と捉えることの大きな誤解
多くの経営者様がM&Aを検討し始めるのは、往々にして事業環境が厳しくなった時です。「業績不振」「借入金の増大」「後継者不在」といった、いわば「ネガティブ・ドライバー」がきっかけとなるケースが散見されます。このタイミングでのM&Aは、「ディストレス案件」と呼ばれることがあります。これは、財務的に困難な状況にある企業を対象とするM&Aです。
1-1. 「窮地」におけるM&Aの現実
業績不振時にM&Aを決断することには、主に2つの大きな困難が伴います。
- 著しく低いバリュエーション(企業価値評価)
- 極めて限定的な選択肢と交渉力
バリュエーションの観点: 企業の価値は、その企業が将来どれだけのキャッシュフローを生み出すか(DCF法)、あるいは類似する上場企業やM&A事例と比較してどれだけの評価が市場でなされているか(類似会社比較法)によって算出されます。
業績が不振であるということは、将来のキャッシュフロー予測は「減少」か「横ばい」を前提とせざるを得ません。また、赤字であれば、事業の収益性を示すEBITDA(利払前・税引前・減価償却前利益)がマイナスとなり、EBITDAに一定の倍率(マルチプル)を乗じて価値を算定する「EBITDAマルチプル法」では、事業価値がゼロ、あるいはマイナス(純負債が事業価値を上回る)と評価されることさえあります。
交渉力の観点: 売り手側に「このM&Aが成立しなければ、事業が立ち行かなくなる」という切迫した事情がある場合、買い手に対する交渉力は限りなく弱くなります。買い手は、売り手の足元を見て、非常に低い価格を提示するか、あるいは法的なリスクを回避するために、民事再生や会社更生といった法的整理の枠組み(いわゆる「倒産M&A」)でのスポンサー就任を選択することになります。この場合、既存の株主様(オーナー経営者)の手元には、価値がほとんど残らない可能性が高くなります。
1-2. リスクの引き受け手としての買い手
買い手は、業績不振の企業を買収する際、将来の業績回復(V字回復)に多大なコストと労力がかかることを織り込みます。また、デュー・ディリジェンス(DD)と呼ばれる買収監査のプロセスで、潜在的な負債(簿外債務や訴訟リスクなど)が発見される可能性も高まります。これらの「不確実性=リスク」は、すべて買収価格から差し引かれます(リスク・プレミアムとして価格に反映されます)。結果として、売り手が期待する価格と、買い手が提示する「リスクを織り込んだ合理的な価格」との間には、埋めがたい大きな溝が生じるのです。
第2章:本題:「業績好調」こそがM&Aの黄金期である理由
これに対し、「業績が好調な時」のM&Aは、売り手と買い手、双方にとって全く異なる力学が働きます。M&Aは「最後の手段」ではなく、「成長を加速させるための積極的な戦略オプション」へと昇華します。この章では、売り手と買い手、それぞれの視点から「好調時のM&A」のメリットを詳解します。
2-1. 【売り手の視点】 企業価値と交渉力の最大化
業績が絶好調であることは、売り手にとって最強の「交渉材料」となります。
1. バリュエーション(企業価値)の最大化 これが最大のメリットです。前述のEBITDAマルチプル法を例にとれば、
企業価値 = EBITDA × マルチプル(倍率)
業績が好調な企業は、この**「EBITDA(利益の額)」そのものが大きいことに加え、市場からの成長期待や競争優位性が評価され、「マルチプル(倍率)」も高くなります。
例えば、EBITDAが1億円でマルチプルが5倍(評価額5億円)の企業が、業績好調によりEBITDAが3億円に成長し、市場の評価も高まりマルチプルが8倍になった場合、評価額は24億円となります。利益は3倍ですが、企業価値は4.8倍にも達するのです。
DCF法においても、将来の事業計画が「力強い右肩上がり」で描けるため、算出される理論価値は劇的に向上します。
2. 交渉力の圧倒的優位性 好調時の売り手は、「売らなくてもよい」という最強のカードを持っています。これを交渉理論では「BATNA(Best Alternative To a Negotiated Agreement:交渉決裂時の最善の代替案)」と呼びます。
売り手のBATNAが「交渉を決裂させ、引き続き好調な事業を自ら経営すること」である場合、買い手は「この魅力的な企業を手に入れるためには、売り手の条件を最大限尊重するしかない」という立場に置かれます。
これにより、価格交渉はもちろんのこと、
- 従業員の雇用維持
- 現経営陣の処遇(一定期間の経営関与など)
- 売却後の表明保証(※)のリスク限定
といった、価格以外の重要な条件(ディール・ターム)においても、極めて有利な条件を引き出すことが可能になります。
※表明保証(Representations and Warranties)とは: M&A契約において、売り手が買い手に対し、「自社の財務内容や法務状況は、開示した情報のとおり真実かつ正確である」と表明し、保証すること。もし契約後にこの表明に違反する事実(例:未払いの残業代、簿外債務)が発覚した場合、買い手は売り手に損害賠償を請求できます。業績不振の企業は、DDで問題が露見しやすく、この表明保証のリスクも高まります。
3. 最良のパートナー(買い手)の選定 好調な企業(「A級アセット」と呼ばれます)には、多くの買い手候補が殺到します。単に高い価格を提示する財務的投資家(PEファンドなど)だけでなく、事業上の相乗効果(シナジー)を真に理解し、従業員や企業文化を尊重してくれる「戦略的買い手(ストラテジック・バイヤー)」、すなわち事業会社が名乗りを上げます。売り手は、価格、文化、戦略的ビジョンが最も合致する「最良のパートナー」を、数多の候補の中から「選ぶ」ことができるのです。これは、買い手を探すのに窮するディストレス案件とは対極の状況です。
2-2. 【買い手の視点】 リスクの低減と成長の加速
M&Aは「買う側」にとっても、業績が好調な時にこそ実行すべき戦略です。
1. M&Aの原資(資金力)の確保 当然ながら、買収には多額の資金が必要です。業績が好調であれば、自社のキャッシュ(手元資金)が潤沢であるだけでなく、金融機関からの借入(LBO:レバレッジド・バイアウト)や、自社の高い株価を活かした株式交換(※)といった、多様な資金調達の選択肢を持つことができます。
※株式交換(Stock Swap)とは: 買い手企業が、売り手企業の株主に対し、対価として「現金」ではなく「自社の株式」を交付することで、売り手企業を完全子会社化する手法。自社の株価が高ければ高いほど、少ない株式数で大きな買収が可能となり、現金の流出を防げます。
2. 「時間」を買うという戦略 企業が新たな市場に参入したり、新たな技術を開発したりするには、通常、膨大な時間とコスト(R&D費用)がかかります(これをオーガニック・グロース:自律的成長と呼びます)。
M&Aは、その時間と開発リスクを「買う」行為です。特に技術革新の速い業界では、業績が好調で体力があるうちに、将来有望な技術や市場シェアを持つ企業を買収することが、競合他社を突き放す最善の戦略となり得ます。
3. シナジーの実現可能性の向上 M&Aの成否は、買収後の統合プロセス(PMI:Post Merger Integration)にかかっていると言っても過言ではありません。
買い手企業の業績が好調であれば、PMIに投入できるリソース(人材、資金、時間)に余裕が生まれます。被買収企業(売り手)のシステム統合、人事制度のすり合わせ、企業文化の融合といった、非常に困難な作業を丁寧に進めることができます。業績不振の企業が、自らの立て直しと並行してPMIを成功させることは、実務上、極めて困難です。
第3章:好調時に決断できない「経営者の心理的障壁」
これほどまでに合理的な理由がありながら、なぜ多くの経営者は「絶好調の時」にM&Aを決断できないのでしょうか。そこには、特有の心理的・実務的なハードルが存在します。
3-1. 「まだ成長できる」という期待(現状維持バイアス)
「今は絶好調だ。このまま行けば、もっと成長できる。今売るのは早すぎるのではないか」 これは、成功している経営者であれば当然抱く感情です。しかし、市場環境や競争の波は予測不可能です。我々アドバイザーが目にしてきたのは、「あの時(絶好調時)が最高の売り時だった」と、数年後に業績が傾いてから後悔するケースです。
企業のライフサイクルにおいて、「永遠の成長」はあり得ません。「最も高く評価される瞬間」と「事業の絶対的なピーク」は、必ずしも一致しないのです。市場がその事業の将来性を「最も楽観視している瞬間」こそが、バリュエーション上のピークとなります。
3-2. M&Aに対する心理的抵抗
特に創業経営者にとって、会社は「我が子」同然です。それを他社に譲り渡すことへの抵抗感、従業員への裏切りになってしまうのではないかという懸念は、非常に根深いものがあります。しかし、現代のM&Aは、単なる「身売り」ではありません。より強固な資本とリソースを持つパートナーの傘下に入ることで、自社だけでは成し得なかった大きな成長を実現し、従業員により良いキャリアパスを提供する「発展的選択」と捉えられています。
3-3. 実務的な準備不足
業績が好調な時は、経営者も従業員も「日々の業務に追われている」状態です。M&Aの準備(財務諸表の整備、法務リスクの洗い出し、M&A戦略の策定)といった、緊急ではないが重要な業務は後回しにされがちです。そして、いざM&Aを検討し始めた時には、市場のピークを過ぎている、あるいは内部管理体制が整っておらずDDで評価を下げられる、といった事態に陥ります。
第4章:好調時だからこそ可能な「高度なM&Aスキーム」
業績が好調で、売り手・買い手双方に体力がある場合、単純な「100%現金売却」以外にも、高度で柔軟なM&Aスキーム(取引形態)を選択することが可能になります。
4-1. アーンアウト(Earn-out)条項
これは、売り手と買い手の間で、将来の業績見通し(評価額)にギャップがある場合に用いられる手法です。まず、M&A実行時点(クロージング)で確定した買収対価(例:10億円)を支払います。その後、将来の一定期間(例:3年間)において、あらかじめ定めた業績目標(例:EBITDAが毎年5億円以上)を達成した場合、売り手に追加の対価(例:最大5億円)が支払われます。
業績が好調な売り手は「もっと成長できる」と主張し、買い手は「その成長には不確実性がある」と考える。このギャップを、将来の業績達成という「結果」で埋めるのがアーンアウトです。売り手は自らの経営手腕によって、さらなる対価を得るチャンスがあります。
4-2. 売り手による一部株式の継続保有(ロールオーバー)
売り手(オーナー経営者)が、株式の100%を売却するのではなく、例えば70%だけを売却し、残りの30%を継続して保有する手法です。これは、PEファンドなどが買い手となるケースで多く見られます。ファンドは「30%の株主」として残る現経営者と二人三脚で企業価値の向上を目指し、数年後にIPO(株式上場)やセカンダリー・バイアウト(ファンドから別の買い手への売却)を実現します。
売り手は、一度目の売却(70%)でまとまった現金を確保しつつ(創業者利益の確定)、二度目の売却(30%)で、ファンドと共に成長させた「さらに高くなった企業価値」の恩恵を受ける(キャピタルゲインの二重取り)ことが期待できます。
4-3. 資本業務提携からの段階的M&A
いきなり100%の売却・買収に踏み切るのではなく、まずは買い手が20%~30%程度の少数株主として資本参加し、業務提携(共同開発、販路の相互利用など)からスタートするケースです。
数年間、共同で事業運営を行うことで、お互いの企業文化や戦略の相性(フィット感)を見極めます。そして、双方の信頼関係が醸成され、シナジーが確実視できた段階で、残りの株式の追加取得(完全子会社化)に進みます。
これは、双方にとってリスクを最小限に抑えつつ、M&Aの成功確率を最大化する、非常に洗練された手法です。
結論:M&Aを「経営戦略の標準装備」として
M&Aは、もはや「有事の際」の特殊な選択肢ではありません。それは、企業が持続的に成長し、変化の激しい時代を生き抜くための、「平時」から備えておくべき標準装備の経営戦略です。業績が不振に陥ってからでは、選択肢は「延命」や「清算」に限られてしまいます。しかし、業績が好調な時にこそ、M&Aは「飛躍的成長」「事業の承継」「創業者利益の最大化」といった、あらゆるポジティブな可能性を実現する万能のツールと成り得ます。
経営者の方々に求められるのは、「自社が最も輝いている瞬間」を客観的に見極め、その価値を最大化する手段として、M&Aを冷静に天秤にかける「戦略的視点」です。我々M&Aアドバイザーの役割は、その「最適解」を導き出すため、法務・財務・税務の知見を駆使し、あらゆる可能性をシミュレーションし、経営者様の決断をサポートすることにあります。
貴社の「今」が、もし絶好調であるならば。それこそが、M&Aという選択肢を、一度真剣に検討する「最高のタイミング」なのかもしれません。



















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