会社を売却するという決断は、経営者にとって人生最大のプロジェクトと言っても過言ではありません。数ヶ月に及ぶ交渉、資料提出、そして買い手によるデューデリジェンス(DD:買収監査)を乗り越えた先に待っているのが、「株式譲渡契約書(SPA:Stock Purchase Agreement)」の締結です。
「ようやくここまで来たか」と安堵される経営者も多いですが、実はここからが本当の正念場です。SPAは単なる「売買の記録」ではなく、譲渡後にあなたが背負う可能性のあるリスクの範囲を確定させる、いわば「責任の境界線」を描く作業だからです。
「SPAの細部へのこだわりが、引退後の平穏を左右する」ということです。本稿では、経営者の皆様がSPAの全体像を理解し、買い手との交渉で何を主張すべきかを、実務家の視点から余すことなく解説いたします。
1. 株式譲渡契約書(SPA)の本質的な役割
M&Aにおいて、基本合意書(LOI/MOU)が「婚約」だとするならば、SPAは「婚姻届」であり、同時に詳細な「財産分与と責任分担の取り決め」でもあります。
LOI/MOUとの決定的な違い
基本合意書は、一部の条項(独占交渉権や秘密保持など)を除き、法的拘束力を持たないのが一般的です。しかし、SPAは署名・捺印した瞬間に、すべての条項が法的拘束力を持ちます。 一度結んでしまえば、「そんなつもりではなかった」という言い訳は通用しません。
SPAが決定する2つの最重要事項
- 対価の確定方法: 最終的にいくら手元に残るのか。
- 責任の分担: 譲渡後に問題が起きた際、誰が、いくら、いつまで負担するのか。
2. SPAの全体構造:6つの大黒柱
SPAは通常、以下の6つのパートで構成されています。これらを一つずつ紐解いていくことが、契約書を読み解く第一歩です。
- 譲渡の基本条件: 誰が、どの株を、いつ、いくらで譲渡するか。
- 価格調整メカニズム: クロージング時点の現預金や負債による最終価格の微調整。
- 表明保証(Representations and Warranties): 会社の現状に嘘偽りがないことの約束。
- 誓約事項(Covenants): 契約締結から実行日まで、あるいは実行後の禁止・遵守事項。
- クロージング条件(Conditions Precedent): 取引を実行するための前提ハードル。
- 補償・解除: 約束が破られた時のペナルティや契約の白紙化。
3. 譲渡対価と価格調整(Purchase Price Adjustment)
「価格は10億円で合意したはずなのに、契約書には複雑な計算式が書いてある」これはM&A実務において非常によくある光景です。
3-1. 企業価値(EV)と株式価値(Equity Value)の違い
M&Aの価格交渉では、まず「事業そのものの価値(企業価値:EV)」を合意し、そこから会社が抱える「借金」を引き、「手元の現金」を足すことで、株主が受け取る「株式価値」を算出します。
株式価値 = 企業価値(EV) – 純有利子負債(Net Debt) ± 運転資本調整
3-2. ネットデット(純負債)調整の罠
有利子負債(借入金)を引くのは納得しやすいですが、実務で揉めるのは**「有利子負債に準ずるもの(負債類似項目)」**の扱いです。
- 未払残業代
- 退職給付引当金の不足分
- 未払いの税金買い手はこれらを「負債」として価格から引きたいと考えます。売り手としては、これらをどこまで認めるかが交渉の焦点となります。
3-3. 運転資本(Working Capital)調整の重要性
会社を運営するには、常に一定の在庫や売掛金が必要です。これを「運転資本」と呼びます。
もし、売り手が譲渡直前に売掛金を強引に回収し、買掛金の支払いを遅らせて現金を増やした場合、会社は「空っぽの状態」で買い手に引き渡されることになります。これを防ぐため、「正常な運転資本の水準(ターゲットWC)」を定め、クロージング時の実績値との差額を価格に反映させます。
実務のアドバイス:
運転資本の計算に含める「勘定科目」をSPAの別紙で明確に定義してください。ここを曖昧にすると、譲渡後に「在庫の評価が低いから減額だ」といった理不尽な要求を招く隙を与えてしまいます。
4. 表明保証(Representations and Warranties):最大の防波堤
表明保証(R&W)とは、売り手が買い手に対し、「財務諸表は正しい」「隠れた訴訟はない」「反社会的勢力との関わりはない」といった事実を保証することです。
4-1. なぜ買い手は表明保証を求めるのか
買い手はDDを行いますが、すべてのリスクを把握することは不可能です。そこで、売り手に「保証」をさせることで、万が一の際の損害賠償請求の根拠(法的武器)を確保するのです。
4-2. 売り手がリスクを限定するための「3つの武器」
表明保証は、そのまま受け入れると売り手にとって無限の責任になりかねません。以下の3つの表現を使い、責任の範囲を適切に絞り込むのがプロの交渉術です。
- 知る限り(Knowledge Qualifier):「法令違反はない」と言い切るのではなく、「売り手が知る限り、法令違反はない」とします。これにより、経営者として通常把握し得ない事象まで責任を負わされるのを防ぎます。
- 重要性(Materiality Qualifier):「一切の契約違反がない」ではなく、「重要な点において契約違反がない」とします。些細な事務ミスで補償請求されるのを防ぐためのフィルターです。
- 開示スケジュール(Disclosure Schedule):「実は未払残業代が500万円ある」といった「傷」をあらかじめSPAの付録(開示スケジュール)に記載してしまえば、その点については表明保証違反に問われません。「知っていることはすべて出し切る」ことが、最大の自己防衛になります。
5. 誓約事項(Covenants):譲渡までの振る舞い
SPAにサインしてから、実際に株が移転しお金が振り込まれる(クロージング)までには、通常1ヶ月〜数ヶ月の期間があります。
5-1. クロージング前の誓約
買い手は、契約した時の状態のまま会社を引き継ぎたいと考えます。そのため、以下のような行為が制限されます。
- 多額の設備投資
- 新規の借入れ
- 役員報酬の大幅な変更
- 重要な契約の締結・解約
これを**「善管注意義務(ぜんかんちゅういぎむ)」**と言います。自分の会社であっても、引き渡しを待つ間は「預かりもの」として丁寧に扱う責任が生じます。
5-2. クロージング後の誓約
最も代表的なのが「競業避止義務(きょうぎょうひしぎむ)」です。会社を売った直後に、そのノウハウを使って隣で同じ商売を始められたら、買い手はたまりません。
- 期間(3年〜5年が一般的)
- 地域
- 事業の範囲これらが、あなたの引退後の活動を不当に縛るものでないか、精査が必要です。
6. クロージング条件(CP):取引実行のスイッチ
クロージング条件(Conditions Precedent)は、これらが満たされない限り、買い手はお金を払う義務を負わないという前提条件です。
注意すべき「曖昧な表現」
買い手が「やっぱり買うのをやめたい」と思った時、CPに曖昧な表現があると、それを口実に撤退される恐れがあります。
- 「重大な悪影響(MAE:Material Adverse Effect)」の発生: 天災や急激な景気変動を指しますが、この定義が広すぎると危険です。
- 「買い手が満足する結果であること」: このような主観的な文言は、客観的な条件に書き換えるべきです。
7. 補償条項(Indemnification):最後のリスクヘッジ
もし表明保証に違反があった場合、売り手はいくら支払うべきか。これを決めるのが補償条項です。ここでは「金額」と「期間」のセットで考えます。
7-1. 金額の制限(CapとBasket)
- Cap(上限): 万が一の損害賠償額の上限を定めます。中小企業M&Aの実務では、譲渡価格の10〜20%程度に設定するのが一般的です。
- De Minimis(免責基準): 1件あたりの損害が少額(例:50万円未満)の場合は、請求そのものをしないというルールです。
- Basket(累積免責額): 損害の累計額が一定額(例:500万円)を超えた場合のみ、請求を認める仕組みです。
7-2. 期間の制限(Survival Period)
いつまでも責任を負い続けることはできません。
- 一般事項:1年〜2年
- 税務・労務:時効に合わせ、3年〜5年これらを過ぎれば、ようやく「完全な自由」を手にすることができます。
8. 税務・会計の視点:手残りを最大化するために
SPAの内容は、あなたの手元に残る現金額(手残り)に直結します。
役員退職金の活用
株式の譲渡代金として受け取る(譲渡所得:税率約20%)のと、役員退職金として受け取る(退職所得:分離課税・大きな控除あり)のとでは、税務上のメリットが異なります。SPAの中で「退職金の額」と「支払方法」を明記し、株価の一部を退職金に振り分けることで、合法的に手残りを増やすことが可能です。
署名前の最終チェックリスト
契約書を閉じる前に、以下のポイントが反映されているか、指差し確認を行ってください。
- 価格調整: 純負債や運転資本の計算式、科目の定義が明確か?
- 表明保証: 「知る限り」「重要な」という限定詞が適切に入っているか?
- 開示スケジュール: 知っているリスク(傷)をすべて書き出し、免責されているか?
- 補償上限・期間: 万が一の賠償額が、手に入れた代金を超えない設定になっているか?
- クロージング条件: 第三者の承諾が必要な事項(COC条項等)が漏れていないか?
- 従業員の処遇: 買い手と約束した雇用条件が明文化されているか?
FAQ
Q1. 株式譲渡契約書(SPA)とは何ですか?
A. SPA(Stock Purchase Agreement)は、M&Aにおける株式譲渡の最終契約書です。譲渡価格、条件、表明保証、補償、クロージング条件等を定め、法的拘束力を持ちます。
Q2. SPAと基本合意書(MOU)・意向表明書(LOI)の違いは何ですか?
A. LOI/MOUは原則として法的拘束力が限定的ですが、SPAは取引の最終条件を確定する法的拘束力ある契約です。実務上のリスクはSPAで決まります。
Q3. SPAは誰が作成(ドラフト)しますか?
A. 多くの案件では、買い手側の弁護士が初稿を作成し、売り手側が修正交渉します。初稿は買い手有利であることが一般的です。
Q4. SPAの主要条項(重要論点)は何ですか?
A. 主に以下です。
- 譲渡対価(Purchase Price)と価格調整
- 表明保証(R&W)
- 誓約事項(Covenants)
- クロージング条件(CP)
- 補償条項(Indemnification)
- 解除・違約・反社条項
Q5. 「譲渡価格○億円」とあれば、その金額が必ず振り込まれますか?
A. 必ずしも一致しません。SPAではネットデット調整(純負債調整)や運転資本調整により、最終的な振込金額が変動することが一般的です。
Q6. ネットデット調整(Net Debt Adjustment)とは何ですか?
A. 会社の有利子負債-現預金等を純負債(Net Debt)として扱い、企業価値(EV)から控除して株式価値を算出する調整です。借入が多いほど手取りが減ります。
Q7. 運転資本調整(Working Capital Adjustment)とは何ですか?
A. クロージング時点での売掛金・在庫・買掛金等の運転資本の増減を、譲渡対価に反映する調整です。対象科目の定義が曖昧だと争点になります。
Q8. 表明保証(Representations and Warranties)とは何ですか?
A. 売り手が買い手に対して「財務・法務・税務・労務等に嘘偽りがない」ことを保証する条項です。違反が発覚すると、損害賠償・補償請求の原因になります。
Q9. 表明保証で売り手が特に注意すべきポイントは何ですか?
A. 「責任範囲の限定」です。典型は以下です。
- Knowledge(知る限り)
- Materiality(重要性)
- 開示例外(Disclosure Schedule)
これらがないと、売り手が過大な責任を負う設計になりがちです。
Q10. 補償条項(Indemnification)とは何ですか?
A. 表明保証違反や誓約違反があった場合に、売り手が買い手の損害を補償する条項です。補償の範囲・上限・期間がSPA交渉の核心です。
Q11. 補償上限(Cap)の相場はどれくらいですか?
A. 中小・中堅企業の実務では、一般補償の上限を**譲渡対価の10%〜20%**程度とする例が多いです。ただし不正・悪意(Fraud等)は上限なしとされがちです。
Q12. バスケット(Basket)とデミニミス(De Minimis)とは何ですか?
A. 少額請求を抑止する仕組みです。
- De Minimis:一定額未満は請求対象外(例:50万円未満)
- Basket:累計が一定額を超えると請求可能(例:500万円超)
Q13. 補償請求できる期間(Survival)の相場はどれくらいですか?
A. 一般事項は12〜24か月が多く、税務は更正可能期間などを踏まえ3〜5年程度に設定されることがあります(案件により変動)。
Q14. クロージング条件(Conditions Precedent:CP)とは何ですか?
A. 条件が満たされなければ譲渡を実行しない(できない)という前提条件です。COC承諾・許認可・表明保証の真実性などが含まれ、曖昧だと買い手撤退の根拠になります。
Q15. 経営者がSPA署名前に必ず確認すべきことは何ですか?
A. 最低限、以下5点です。
- 価格調整式(Net Debt/WC/クロージングBS)
- 表明保証の限定(Knowledge/Materiality/開示例外)
- 補償の上限・下限・期間(Cap/Basket/Survival)
- CPの客観性・期限(MAE/COC等)
- 競業避止・ロックアップの範囲(期間・地域・解除条件)



















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