「企業価値」と「株式価値」、「事業価値」の違いを専門家が解説

 本章では、M&Aの成否を分ける最重要概念である「企業価値(Enterprise Value)」「事業価値(Business Value)」そして「株式価値(Equity Value)」の3つの違いについて、教科書的な定義だけでなく、実務の現場でどのように調整・計算されるのかを徹底的に解説します。

目次

第1節:M&Aにおける「3つの価値」の全体像

 まず、言葉の定義を明確にしましょう。M&Aの世界では、似たような言葉が異なる意味で使われます。ここを混同すると、買い手との会話がかみ合わなくなります。

1.事業価値(Business Value)

 これは、その会社の「事業そのものが持つ稼ぐ力」の価値です。工場、ブランド、従業員、ノウハウなどを使って、将来どれだけのキャッシュフローを生み出せるかを表します。一般的に「EBITDAの〇倍(マルチプル)」といった会話で使われるのは、この「事業価値」を指していることが多いです。

2.企業価値(Enterprise Value:EV)

 上記の「事業価値」に、事業には直接関係のない資産(遊休地、投資有価証券、過剰な現預金など)を加えたものです。会社全体の総資産価値とも言えますが、実務上は「事業価値 ≒ 企業価値」として扱われることも多々あります(本章では便宜上、事業価値を中心概念として解説します)。

3.株式価値(Equity Value)

 これが最も重要です。**オーナー経営者様が株を売却して手にする「対価」のことです。企業価値から、銀行への返済義務など(有利子負債)を差し引いた残りの価値を指します。

「マイホームの売却」で考えると一発でわかる

 専門用語が並ぶと難しく見えますが、構造は「住宅ローンが残っている家を売る」のと全く同じです。

【例:3,000万円の価値がある家を売る場合】

  • 家の価値(事業価値): 3,000万円
    • 不動産市場で「この家なら3,000万円で売れる」と評価された額です。
  • 住宅ローンの残債(有利子負債): 2,000万円
    • まだ銀行に返さなければならない借金です。
  • 手元に残るお金(株式価値): 1,000万円
    • 家の価値からローンを返済して、最後に手元に残る現金です。

 M&Aもこれと同じです。いくら事業価値(家の価値)が10億円あっても、会社に借金(ローン)が9億円あれば、株式価値(手取り)は1億円にしかなりません。多くの経営者様が「うちは10億円の価値がある!」と仰るのは「家の価値」の話をしており、買い手が「1億円でお譲りください」と言うのは「手取り」の話をしている。これが、交渉決裂を生む最大のミスコミュニケーションです。

第2節:計算式「エクイティ・ブリッジ」の徹底解剖

 M&A実務において、事業価値から株式価値を導き出す計算プロセスを「エクイティ・ブリッジ」と呼びます。川の向こう岸(事業価値)からこちらの岸(株式価値)へ橋を渡るイメージです。

基本公式は以下の通りです。

 株式価値 = 事業価値 + 非事業用資産 – 有利子負債(ネット・デット)

 この数式自体は単純ですが、プロの実務家として申し上げると、「何を足して、何を引くか」の解釈を巡って、熾烈な交渉が行われます。単純に決算書の数字を当てはめるだけではないのです。ここに経験の差が出ます。

1.「事業価値」はどう決まるか(EBITDA倍率法)

 中小・中堅企業のM&Aでは、最も一般的に以下の式で簡易的な事業価値を算出します。

 事業価値 = 正常収益力(EBITDA) × 倍率(マルチプル)

【用語解説:EBITDA(イービットディーエー)】

「利払い前・税引き前・償却前利益」のこと。

簡易的には「営業利益 + 減価償却費」で計算します。

【用語解説:正常収益力】

決算書上の数字ではなく、役員報酬の適正化や、一過性の損益(突発的な修繕費や保険解約益など)を除去し、「実力値」に直した利益です。

 この「倍率」は業種や市場環境によりますが、通常は3倍〜7倍程度で推移します。ここまでは、多くの経営者様も勉強されています。

2.何が「有利子負債」とみなされるか(Debt)

 ここからが本番です。「有利子負債を引く」といっても、銀行からの借入金だけではありません。買い手は、将来キャッシュアウト(現金流出)が確定しているものをすべて「借金類似項目」として、価格から差し引こうとします。

代表的な「隠れ負債」には以下のようなものがあります。

  • 退職給付引当金の不足額: 従業員に将来払う退職金のうち、帳簿に載っていない積立不足分。
  • 未払い残業代: デューデリジェンス(買収監査)で発覚する、過去の未払い賃金リスク。
  • 社会保険料の未納分: 延滞税を含めた未納額。
  • ファイナンスリース債務: 解約不能なリース契約の残債。
  • 役員借入金: オーナーが会社に貸しているお金(これは逆に、株式価値に加算されるか、返済によってオーナーに戻りますが、計算上は負債として整理が必要です)。

これらを洗い出し、「これは事業価値に含まれているリスクなのか、それとも別途差し引くべき負債なのか」を議論するのが、我々アドバイザーの腕の見せ所です。

第3節:多くの経営者が陥る「現預金」の罠

 「株式価値 = 資産 - 負債」という単純な計算において、最も誤解が多いのが「現預金」の取り扱いです。「会社にある現金は、借金を引くときに相殺できる(ネット・デットを減らせる)から、全額オーナーのものだ」

 そう思われている方が非常に多いのですが、実はそう単純ではありません。ここには「運転資本(ワーキング・キャピタル)」という、会計とファイナンスの重要概念が関わってきます。

運転資本(Working Capital)とは何か

 会社を運営するには、日々の支払いに備えて、ある程度の現金がレジの中に必要です。また、売掛金が入金されるまでの間の仕入れ代金など、立て替えている資金もあります。

【用語解説:正味運転資本】

一般的に「売掛金 + 棚卸資産 - 買掛金」で計算されます。

事業を回すために、常に会社の中に拘束されている資金のことです。

 M&Aにおいて買い手は、事業を継続するために必要な現金を「必要運転資金」として会社に残すよう要求します。つまり、決算書に現預金が3億円あったとしても、事業を回すのに最低1億円が必要であれば、

「株式価値の計算で足し戻せる(オーナーが持って帰れる)余剰資金は、3億円引く1億円で、2億円だけです」

という主張になります。

 この「いくらを必要運転資金とみなすか」のライン引きは、非常に高度な論点です。過去の月商平均を使うのか、季節変動を考慮するのか。アドバイザーがつかずに交渉した場合、買い手に保守的な(高い)必要資金額を設定され、結果として株式価値を削られるケースが散見されます。

第4節:企業価値を上げるための「非事業用資産」の整理

 ここまでは「引かれる」話ばかりでしたが、「足される」話も重要です。それが「非事業用資産(Non-Operating Assets)」です。事業価値(EBITDA × 倍率)には、事業に使っていない資産の価値は含まれていません。したがって、これらは別途、時価評価して株式価値に上乗せする必要があります。

1.積立型の保険

 節税目的で加入していた法人保険の解約返戻金相当額は、立派な資産です。これは事業収益とは無関係な「貯金」と同じですので、株式価値にプラスされます。

2.遊休不動産・リゾート会員権

 工場や本社以外の、事業に使っていない土地や建物、社長の趣味で購入したゴルフ会員権やリゾートホテルの権利なども、時価で評価してプラスします。

3.貸付金・仮払金

 取引先や関係会社への貸付金のうち、回収確実なものは現金同等物としてプラス評価されます。ただし、回収不能とみなされた場合や、使途不明金(オーナーへの私的流用と疑われるもの)は、逆に評価減の対象となったり、表明保証違反のリスクになったりします。

【アドバイス】M&Aを検討し始めたら、これらの資産は可能な限り現金化するか、整理しておくことをお勧めします。買い手にとって不要な資産(例えば遠方の別荘など)は、「評価ゼロ」と言われるリスクがあるからです。「現金」にしておけば、1円は1円として確実に評価されます。

第5節:税務インパクト ― 「手取り」の最終計算

 さて、ここまで計算してようやく「株式価値(売却価格)」が決まりました。例えば、「10億円」で合意できたとしましょう。では、オーナーの銀行口座に10億円が入るのでしょうか?

 答えはNoです。最後に「税金」が待ち構えています。

株式譲渡の場合の課税

 個人のオーナー経営者が株式を売却する場合、その譲渡益に対して20.315%(所得税+住民税+復興特別所得税)の分離課税がかかります。

手取り額 ≒ 株式価値 × (1 - 20.315%)

 これは、役員報酬や配当金が最大で約55%(総合課税)の税率になることに比べれば、非常に優遇された税制です。M&Aが「創業者利益の確保」として有効な手段である最大の理由がここにあります。

しかし、注意点もあります。

  • 取得費の確認: 創業時に出資した資本金などの「取得費」を売却額から引いた利益に対して税金がかかります。古い会社の場合、当時の資料がなく、取得費が証明できないと、「売却額の5%を取得費とする(つまり95%が利益とみなされる)」という概算取得費制度を使わざるを得ず、税金が高くなることがあります。
  • 退職金との組み合わせ: 株式譲渡代金の一部を「役員退職金」として受け取るスキームも有効です。退職金は税制上さらに優遇されているため、トータルの手取り額を増やせる可能性があります。ただし、これには「事業価値」から退職金支給額(負債)を引く調整が必要であり、買い手との高度な交渉が必要です。

第6節:事例で見る「準備不足」の代償

ここで、私が実際に目撃した、バリュエーションの誤解による失敗事例を(特定できない形で)ご紹介します。

事例:老舗製造業B社の悲劇

 B社は創業50年、売上20億円、営業利益1億円の優良企業でした。社長は「純資産が5億円あるし、利益も出ているから、最低でも10億円は手元に残るだろう」と考えていました。しかし、デューデリジェンス(DD)の結果、以下の事実が判明しました。

  1. 在庫の滞留: 資産計上されている在庫のうち、3億円分は5年以上動いていない「死に筋商品」であり、廃棄損として処理すべき(資産価値ゼロ)。
  2. 工場の土壌汚染: 古い工場で土壌汚染が見つかり、浄化費用に2億円かかると試算された(潜在債務)。
  3. 社会保険の未加入: パート従業員の社会保険加入漏れがあり、過去2年分の未払いリスクが5,000万円。

【計算結果】

  • 当初想定の株式価値:10億円
  • DD後の修正:
    • 在庫減損:▲3億円
    • 環境債務:▲2億円
    • 労務リスク:▲0.5億円
    • 最終提示額:4.5億円

 社長はこの提示額に激怒し、「こんな金額で売れるか!」と交渉を打ち切りました。しかしその後、業績は徐々に悪化。さらに銀行からも「事業承継はどうするのか」と詰め寄られ、3年後に別の買い手と交渉した際には、さらに低い金額で売却せざるを得なくなりました。

【教訓】

 自分の会社の「本当の価値(リスク込みの価値)」を、売りに出す前に把握していれば、B社長は最初の4.5億円で手を打つか、あるいは事前に在庫処分や土壌調査を行ってリスクを確定させ、交渉力を高めることができたはずです。「見たくない現実」を直視し、会計・法務的にクリアにしておくことが、結果として株式価値を守るのです。


第7節:手取りを最大化するための5つの処方箋

 最後に、これからM&Aを検討される経営者の皆様へ、株式価値(=あなたの手取り)を最大化するための実践的なアドバイスを贈ります。

1.貸借対照表(BS)を磨き上げる

PL(損益計算書)の売上や利益だけでなく、BS(貸借対照表)を綺麗にしてください。

  • 回収不能な売掛金は償却する。
  • 不良在庫は処分する。
  • 役員貸付金などは清算する。「説明すればわかる」ではなく、「数字として綺麗になっている」状態が、買い手の安心感(=高値評価)に繋がります。

2.オフバランス債務の解消

 未払い残業代や社会保険の未加入など、簿外債務になり得るものは、M&A前に自主的に是正してください。DDで買い手に指摘されると、実際のリスク額以上に「管理能力への不信感」というディスカウント要因(リスクプレミアム)を上乗せされて引かれます。

3.正常収益力(修正EBITDA)の証明資料作成

 節税のために落としている経費(個人的な交際費や車両費など)について、「これは私的なものなので、利益に足し戻せます」と主張するための明細を、過去3期分しっかり整理しておきましょう。領収書レベルで説明できなければ、買い手は足し戻しを認めません。

4.「運転資本」の管理

 現預金を増やすために、無理に買掛金の支払いを遅らせたり、在庫を極端に減らしたりする操作は逆効果です。買い手は「正常な運転資本」を見抜きます。常に適正なサイクルで資金が回っていることを示すことが重要です。

5.信頼できる「翻訳者」をつける

 ここまで解説した通り、株式価値の算定は「会計」「税務」「法務」そして「交渉」が絡み合う総合格闘技です。買い手(特に上場企業やファンド)は、金融のプロを揃えてきます。経営者様が一人で、あるいは顧問税理士(通常の税務申告のプロであり、M&Aのプロではないことが多い)だけで立ち向かうのは、竹槍で戦車に挑むようなものです。

 自社の事業価値を正しく翻訳し、不当な減額要求(ディスカウント)から株式価値を守ってくれる、経験豊富なM&Aアドバイザーを味方につけることが、何よりの防衛策となります。

おわりに

「企業価値」「事業価値」「株式価値」。

 似て非なるこの3つの言葉の違いをご理解いただけましたでしょうか。M&Aは、経営者様が人生をかけて育ててきた会社を、次なる成長ステージへと託す神聖なプロセスです。だからこそ、その対価について誤解や不信感が残るような結末はあってはなりません。

【コラム:用語の整理】読者のためのクイックリファレンス

記事内で使用した専門用語を、誰にでもわかるように再定義しました。

  • EBITDA(イービットディーエー): 「キャッシュを生み出す本業の力」。国や金利の影響を除いた、会社の実力値。M&Aの世界共通言語。
  • ネット・デット(Net Debt): 「実質的な借金」。銀行借入金から手元の現金を引いたもの。ただし、退職金不足額などの「隠れ借金」も加算される点に注意。
  • ワーキング・キャピタル(運転資本): 「商売を続けるための立て替え資金」。売掛金や在庫など。これが増えると手元の現金は減る。
  • デューデリジェンス(DD): 「買収監査」。買い手が公認会計士や弁護士を送り込み、会社を精密検査すること。ここで嘘や隠し事は全てバレる。
  • マルチプル(倍率): 「相場観」。類似する上場企業や過去の事例から、「EBITDAの何倍で売れるか」を示す指標。
プライマリーアドバイザリー株式会社
代表取締役 内野 哲

M&A仲介業、M&Aアドバイザリー。前職は東証プライム上場グループ会社の代表取締役社長として、DX・Webマーケティング支援事業を経営、経営実務としてのファイナンス経験を活かしてM&Aアドバイザリー事業を創業。並行して自己勘定投資会社も経営し、プロ経営者・プロ投資家の双方の視点で顧客の事業価値最大化を支援しています。

経済産業省中小企業庁M&A支援機関登録制度、日本経営財務研究学会(JFA:Japan Finance Association)在籍、東京商工会議所登録。M&Aシニアエキスパート資格保有。

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